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  •  柳城公園に、珍しく表裏に句が刻まれたひとつの句碑があります。
  • 雀生れてゐる花の下をはく
  • 草の花ほんに月がよか   緑平
  •  音もやさしき二つの句。柳川に生まれた俳人、木村緑平の句です。明治21年、福岡県三潴郡浜竹村(現 柳川市)に生まれた緑平は、大正3年、伝習館中学から当時医学専門がっこうだった現 長崎大学医学部に進み、やがて近代を代表する俳人・荻原井泉水(おぎわらせいせんすい)が主管する自由律俳句誌「層雲」を知り、投句を始めます。
  •  自由律とは、従来の季語や五・七・五にとらわれず、自由に心境を詠む俳句のこと。その1年ほど先に「層雲」で活躍していたのが、漂白の俳人・種田山頭火で、ふたりは手紙のやりとりを重ねます。
  •  その後、波乱に富んだ境遇の中、行乞(ぎょうこつ、食べ物の施しを受ける行)流転の旅を続けていた山頭火。故郷柳川の南浜武に開院していた緑平を訪ねたのをきっかけに、生涯を通しての親交を持つこととなります。「草の花ほんに月がよか」の句は、緑平が、山口の小郡町(現・山口市小郡)の「其中庵」を訪ねた折に詠んだ句です。




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  •  昭和に入って緑平は、炭鉱景気に沸く筑豊の田川郡糸田村(現 糸田町)に移り住み、炭鉱医となります。
  •  その頃、山頭火が緑平への気持ちをよく表した句があります。
  • 逢ひたい捨炭(ぼた)山が見え出した 山頭火
  •  家族との離散や、その死によって酒をくらい、時として自暴自棄になる山頭火に、緑平はいつも責めることなく暖かく迎え、支え続けました。そんな優しい緑平を、山頭火は親しみを込めて、「南無緑平老如来(なむりょくへいろうにょらい)」と呼びました。緑平宅に足を運ぶこと十数回。山頭火は、隆盛を極めていた筑豊の炭鉱で、おおらかに山の句を詠み、緑平は、過酷な労働で病となり傷を負う炭鉱夫たちと、医者として向き合う日々を送っていました。
  • 「名残り惜しい別れ、緑平よ、あんたのあたヽかさはやがてわたしのあたヽかさとなってゐる。晴れて曇り、行程六里、心身不調、疲労困憊、やうやくにして行橋の糀屋といふ木賃宿に泊まったが、こヽもよい宿だった。アルコールの力を借りて、ぐっすり睡ることができた。そのアルコールは緑平老のなさけ。」(行乞記・昭和8年6月8日より)
  •  物心共に支えられてか、山頭火は克明に書き綴った日記の昭和5年以降の数十冊を書き終える度に緑平に託したのでした。

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  •  山頭火の死後、この遺稿が公開されることによって、俳句以外で周りにも自らを語ることのなかった山頭火の障害が、人々の心をとらえることになるのです。
  • 雀に生まれてきたのではだし
  • 雨降る子のそばに親の雀がきてゐる
  • うまいことしてゐらあ雀水あびてゐらあ   緑平
  •  そして、緑平自身も、小さな生き物に心を寄せ、特に雀の句を3000句以上詠み「雀のろっぺいさん」と呼ばれます。
  • 今日はお留守というやうな顔の雀が日南に  緑平
  •  昭和14年、山頭火が58歳で柳川へと戻っても、病床の妻を介護しながら、こつこつと句作を続けます。昭和38年に「層雲文化賞」、その翌年には、「寿老賞」を受賞するなど、昭和43年、81歳で亡くなるまで、長きに渡って自由律俳句の道を歩み続けました。現在、柳川市役所の裏、川下りコース沿いに旧宅が残り、句碑があります。
  • 柿の葉落つるのも山頭火の命日らしか
  • 出会ってからずっと「心友」であった二人の情景が思い浮かびます。句碑をたどりつつ、緑平の優しさに触れる、故郷柳川です。



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表紙スライドショーの写真のご紹介

2月・如月
さげもんめぐりが始まると、柳川は一足先に春を迎えます
お雛飾りの両脇に一対で吊るすのが柳川のさげもん/さげもんめぐりの開幕を彩るおひな様始祭/5年めを迎えた水郷柳川ゆるり旅。今回も柳川の新たな魅力に出会えます/七ツ家にある梅の木街道は2月の下旬から見頃を迎えます/日吉神社にある木村緑平の句碑前で行われる木村緑平顕彰祭/一年に一度の水落ち期間では、市民総出で掘割のクリーンアップ大作戦が行われます


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