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  •  1180年から1185年にかけて起こった源平の戦いに敗れ、滅びた平家の落人伝説は日本各地に残されていますが、実は柳川にも「六騎伝説」が伝わります。
  •  1185年、壇ノ浦の戦いで敗れた平家の一部は、肥後路へと逃げました。五家荘(熊本県八代市東部)へと逃げのびた落人たちでしたが、源氏の追求は厳しく、有明海に沿って柳川は沖端にたどり着きました。柳川の人びとは、この落人たちを平家の身分の高い6名の騎馬武者の意味で「六騎(ろっきゅう)」と呼びました。
  •  戦国時代、各地の海岸と同じく、沖端の海岸が海賊たちに攻められました。この時、この六騎が率先して海賊を退治し、海岸には板や菰を張り巡らして、海賊の矢を防いだ(留めた)ことから、矢留という地名も生まれました。
  •  江戸時代になり、初代柳川藩主立花宗茂が柳川城に復帰を果たすと、千代の杉原(沖端片原町付近)に漁に出かけ、沿岸を荒らしていたため、人びとが困っていたところ、この六騎が代表となり宗茂公に遺憾の意を伝えました。その勇気が宗茂公に認められ、銀5百両と有明海の羽瀬さし漁業権を得たことから、沖端の漁業の草分け的存在となり、そこからだんだんと一般の漁業就業者のことも「ろっきゅう」と呼ぶようになりました。




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  •  そんな六騎伝説の残る沖端に、矢留大神宮・六騎神社があります。
  •  六騎と呼ばれた、難波善長(平益信)、加藤権内(平正勝)、浦川天ケ左衛門(平高矩)、鳴神藤助(平親英)、是永多七(平清貞)、若宮兵七(平政直)らは、室町時代、産土神がないことを嘆き、産土神を得て宮殿を造営することを願い、難波、加藤の2人は、伊勢神宮に参り半鏡を授かりました。柳川に戻ったある夜、地下に半鏡があり、それを掘り出して奉祀しなさいという不思議な霊夢を見たのです。その夢に従い、3メートル余り地面を掘ったところ、半鏡が掘り出され、それを伊勢神宮から授かった半鏡と合わせてみると、不思議なことに見事一致しました。
  •  この出来事により、応永2年(1395年)11月15日、その地に天照大神を奉祀し、氏神を大神宮、祭神を天照大神・六騎とし、矢留大神宮が創祀されました。毎年11月15日には漁師たちが豊漁を願い、大神宮の例大祭が行われます。
  •  また、明治30年(1897年)、10月17日から3日間、鎮座500年大祭が催行され、これに合わせて矢留大神宮の本殿の左手に、六騎の霊を祀る六騎神社が創建されました。

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  •  六騎の功績により、漁師町として栄えた沖端ですが、今では柳川の観光地として主要な場所にもなっています。西鉄柳川駅からすぐの乗船場からどんこ舟に乗り、約70分の川下りを楽しんだら、終点が沖端。掘割沿いに立ち並ぶ柳の木々が情緒あふれる景観を作り出し、そのところどころに川下りの下船場が連なります。どんこ舟を降りると、周辺にはうなぎ料理の老舗や、和菓子の名店、洋菓子店にカフェなどが続き、多くの観光客で賑わいます。歴代の藩主が別邸として家族と過ごした柳川藩主立花邸 御花は、明治時代の風情をそのままに残す緑豊かな庭園や、立花家500年に渡る約5000点にも及ぶ大名道具や資料などの収蔵品の中から時期に合わせた展示を見ることができます。
  •  また、柳川出身の詩人北原白秋が青年時代までを過ごした白秋生家や、数寄屋造りの武家屋敷 旧戸島家住宅などがあり、様々な歴史に触れることもできます。
  •  漁業は今でも盛んに行われており、沖端川沿いにはたくさんの船が並び、干潮時には干潟の上に船がある、干満差最大6メートルと言う有明海ならではの光景を目にすることもできます。



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1月・睦月
新年を迎え、神社巡りへ柳川へ。巨大おたふくに、六騎伝説に、柳川には様々な神社があります
巨大おたふくに幸福祈願を/市内各地で行われるほんげんぎょう/矢留大神宮は六騎ゆかりの神社です/六騎の霊を祀る六騎神社/1月25日は白秋生誕祭/寒さ厳しい冬でも、こたつ舟はあったか


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