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  •  女にして、わずか7歳で城督となった誾千代姫。NHKの歴史秘話ヒストリアで取り上げられ、アクションゲームのキャラクターとしても登場し、幅広くその名を知られることとなった柳川ゆかりの姫君です。
  • 誾千代姫は、永禄12年、九州の豊後国を支配していた大友家の重臣だった戸次道雪の一人娘として、筑後国山本郡(久留米市草野)の問本城に生まれました。
  •  肥前加瀬の高僧増吟により命名された誾千代の「誾」には、慎み人の話を聞くという意味合いが込められています。
  •  元亀2年、大友宗麟の命を受け、道雪公は城督として筑前の要衝立花山城に入ります。男子のなかった道雪公に、大友宗麟はしかるべき養子を取り、家督を譲るよう勧めましたが、道雪公はこれを聞き入れず、わずか7歳の誾千代姫に男子と同じ手続きをとり、立花城の城督・城領・諸道具の一切を譲りました。
  •  道雪公57歳にして誕生した子どもだったため、溺愛され育った誾千代姫は、跡取りとして男勝りに育ち、それは女軍を組織するほどでした。




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  •  誾千代13歳の時、戸次道雪と同じく大友家の重臣だった高橋紹運の長男立花宗茂と結婚します。宗茂公15歳の時でした。道雪公は、幼い頃から立花城に度々訪ねていた宗茂公の振る舞いを見て、誾千代の婿養子に迎えたいと、渋る紹運公を幾度となく説得し、ついに養子として迎え入れました。
  •  その頃、大友家の重臣として反大友勢力と戦い、活躍を見せていた道雪公、紹運公でしたが、天正13年に道雪公が、翌14年には紹運公が敗死してしまいます。二人の父親の背中を見て猛将として立派に育った宗茂公は、豊臣秀吉の九州平定により、功績を認められた宗茂公は、筑後柳河に13万石の領地を与えられます。
  •  それに伴い、一緒に柳川へと移った誾千代姫でしたが、宗茂公の柳川城入城後、城下にある宮永村と言うところに居館を設けて住まいました。そのため、誾千代姫は「宮永殿」とも呼ばれていました。結婚しながらも、二人が一緒に住むことはほとんどなかったようです。

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  •   関ヶ原の戦いで西軍につき敗戦した宗茂公は、改易され浪人の身となります。加藤清正や黒田如水らにより、柳川城を包囲された宗茂公は籠城しますが、親交のあった加藤清正の説得を受け入れ、開城します。
  • 加藤清正のいる熊本県腹赤村に誾千代姫とともに食客として迎え入れられますが、宗茂公は新たな展開を求めて放浪の旅へと旅立ちます。宗茂公が放浪の旅を続けていた関ヶ原の戦いから2年後の慶長7年10月17日、マラリアにより誾千代姫はわずか34歳にしてこの世を去ります。
  •  元和6年、徳川家康の計らいにより、旧領柳川城へ見事復活した宗茂公は、翌年すぐに良清寺を健立し、誾千代姫の菩提を弔いました。
  •  誾千代姫が亡くなった、現在の熊本県玉名郡長洲町には、供養塔があり、今でも地元の人々に大事に管理されています。その供養塔の形がぼたもちに似ていることから、地元の人々に親しみを込めてぼたもちさんと呼ばれています。
  • 柳川藩主立花家 御花の食事処では、誾千代姫の愛称「ぼたもちさん」にちなんだぼたもちをいただくこともできます。
  •  立花家史料館には、誾千代姫の鎧のレプリカが制作され、誾千代姫ゆかりの展示の際には、試着などの体験も行われ、人気を集めました。



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表紙スライドショーの写真のご紹介

10月・神無月
川下りにもぴったりの季節となった秋の柳川へ、おいでめせ
9月から11月まで開催中の水郷柳川ゆるり旅/三柱神社の秋季大祭おにぎえ中日のご神幸行列は市民総出で圧巻の光景です/どんキャンキャンとも呼ばれる風流は地域に伝わる伝統のお祭り/初代柳川藩主立花宗茂公の妻 誾千代姫/良清寺には誾千代姫のお墓が/田園風景も稲刈りを迎えガラリと様変わり


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