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  • 初代柳川藩主 立花宗茂は、かの天下人 豊臣秀吉に「その忠義は鎮西一、その剛勇もまた鎮西一。」と称され、関ヶ原の戦いで敵方となった徳川家康からも賞賛を受け、改易後に、旧領に復活したただ一人の武将です。
  •  永禄10年(1567)、鎌倉時代から戦国時代にかけて、豊後、筑後、北九州を支配した守護大名 大友氏の重臣で、信義の武将として知られた高橋紹運の長男として生まれました。
  •  大友氏の勇将だった父の英才教育を受け、宗茂公は幼い頃から周囲を感心させるほど度胸のある子どもでした。8歳の頃、傅役(めのと)や家臣たちと城下に出て大道芸を見物していたところ、刃物沙汰の喧嘩が始まり、見物客も散り散りに逃げ惑う中、宗茂公は家臣たちに「慌てずとも、我らは喧嘩の当事者ではない。危険など及ぶまい。」と落ち着き払った様子だった。しばらくして喧嘩も収まり、城下が鎮まった様子を見て、家臣たちは宗茂公の落ち着きぶりと判断力に舌を巻いたというエピソードも。
  •  12歳での初陣の際は、形ばかりの戦争参加というのが通常だった中、自ら軍勢を率いて戦いに参加し、その見事な奮戦と功績を誰もが認めたといいます。
  •  15歳の時、高橋紹運と同じく大友家の重臣だった戸次道雪の一人娘、誾千代の婿養子として立花城に入城してからは、実父と、義父の影響を受け、優れた人格と技量を持ち合わせた武将としてさらに磨かれていきました。




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  •  実父高橋紹運、義父戸次道雪とともに、信義の武将として最後まで大友氏に尽くした立花宗茂。九州平定を目指し勢力を拡大していた島津氏との戦いで、大友氏が豊臣秀吉に支援を求め従臣してからは、父 紹運とともに豊富秀吉の家臣となり活躍しました。秀吉の九州平定の際には、肥後国の竹迫城、宇土城に続き、出水城を攻め落とすなど西部戦線の先鋒として活躍し、その功績をたたえられ、大友氏から独立した大名となり、筑後柳河に13万2千石の領地を与えられ柳川城に入城しました。
  • その後も豊臣家の家臣として多くの功績を残しましたが、秀吉が亡くなってから2年後に起こった関ヶ原の戦いで、豊臣家率いる西軍として参戦し、大敗を期したのち改易されました。
  •  関ヶ原の戦いで敗戦し柳川城へ戻ると、東軍の鍋島直茂に囲まれ籠城しようとしましたが、以前より親交のあった黒田如水、加藤清正らに懸命の説得を受け、加藤清正の元で食客として迎えられました。しかし、数ヶ月後には、妻誾千代や多くの家臣を残し、大名に復活するべく数人の家臣とともに、浪人の身で京都へ。苦しい浪人生活の中、家臣たちは宗茂公には知らせずに日銭を稼ぐなどして、その生活を支えたといいます。
  •  そんな中ついに念願だった徳川家康への面会を果たすも、京都にいる間には大名復帰とはならず、江戸へ向かい浪人生活を続けていたところ、豊臣秀吉に、ともに「東西無双の者」と賞賛された本田忠勝の来訪を受け、江戸城への登城が命じられました。江戸城へ行くと、家康から幕府の御書院番頭として5000石を与えられ、その後間もなく家康の嫡男 徳川秀忠の御伽衆に列せられて、陸奥棚倉に1万石を与えられ、大名へと復帰しました。
  •  元和6年には当時柳川藩主であった田中家が無嗣断絶となり改易されたため、宗茂公が筑後柳川に10万9200石を与えられ、ついに旧領へと復活しました。

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  •  柳川藩主となった宗茂公でしたが、参勤交代のためそのほとんどを江戸での公務に勤め、柳川にはあまり戻れませんでしたが、柳川天守閣の建造や改修など、柳川城の本格的な整備も進めました。
  •  柳川の民からも「鬼将軍」という異名で呼ばれた宗茂公でしたが、その良政により領民からの信望も厚く、関ヶ原の戦いに敗れ柳川城の降伏開城を迫られた時には、領民たちが集まり自分たちも戦うので出て行かないでほしいと涙ながらに開城を押しとどめようとしました。しかし、領民を戦乱に巻き込みたくない宗茂公の思いを打ち明け、領民たちは涙ながらに宗茂公を見送ったといいます。
  •  寛永19年(1642年)、宗茂公は76歳にして江戸で亡くなりました。その菩提は柳川市にある福厳寺に葬られ、また、柳川市三橋町にある三柱神社には、義父戸次道雪、妻誾千代とともに祭神として祀られています。
  • 宗茂公没後は、廃藩置県が行われた明治4年の立花家12代鑑寛公の代まで藩主を務め、1884年立花家は伯爵となり華族に列しました。
  •  柳川藩主立花邸 御花は柳川藩5代藩主 貞俶公が別邸として建てたもので、当時そのあたりがお花畠という地名だったことから、親しみを込めて御花と呼ばれるようになりました。今でも柳川の観光名所として、多くの観光客を迎えています。
  • 難攻不落の城と言われた柳川城は、明治5年に火事により焼失しましたが、その跡地には中学校と高校が建てられました。天守台跡は、小高い丘として中学校の敷地内に残っており、市民に「へそくり山」と呼ばれ今も親しまれています。



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表紙スライドショーの写真のご紹介

5月・皐月
柳川市の花、花菖蒲が川下りのどんこ船をおもてなし。初夏を感じる柳川へ。
初代柳川藩主立花宗茂公の肖像画/その円と羽根が宗茂公を象徴する兜/国名勝に指定された松涛園は明治の趣を今に残します/椛島菖蒲園は5月下旬から一面に花を咲かせます/沖端水天宮祭の船舞台「三神丸」での子ども囃子/祭りの賑わいは夜まで続きます


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