- 柳川の玄関口としてたくさんの乗降客が利用する西鉄柳川駅は、西鉄天神大牟田線の主要駅の一つです。通勤、通学客を中心に、日本各地やアジアからの観光客を含め1日約1万2千人もの乗降客が利用し、柳川市だけでなく、近隣地域の玄関口となっています。
- その歴史は、大正4年に設立された筑紫電気軌道株式会社(のちの九州鉄道株式会社)から始まりました。同社は、太宰府天満宮の参拝客の輸送を目的に、二日市〜太宰府間を走っていた太宰府軌道と連絡し、さらに大正13年には福岡〜久留米間が開業。当時は両駅を最速55分で結んでいました。その後、昭和7年に津福、昭和12年には柳河と次第に距離を延ばし、ついに福岡と柳河が結ばれたのです。昭和14年には福岡〜大牟田間が開通し、現在の西鉄天神大牟田線と同じ区間が結ばれました。昭和17年同社は、九州電気軌道株式会社など4社と合併し西鉄大牟田線(現在の西鉄天神大牟田線)となりました。開通当時、福岡〜柳川間は75分で結ばれていましたが、今では最速48分で福岡天神から柳川まで来ることができます。
- 柳川で電車といえば西鉄天神大牟田線ですが、実は過去に別の路線が走っていたことも。昭和初期から末期にかけて、佐賀県佐賀市の佐賀駅と福岡県みやま市(旧山門郡瀬高町)の瀬高駅を結ぶ日本国有鉄道の駅として、現在の三橋町柳河に筑後柳河駅が存在していました。昭和6年(1931)9月24日、矢部川〜筑後柳河間を結ぶ佐賀線が開業し、三橋町と筑後柳河駅が新設されました。昭和8年6月には筑後柳河駅〜筑後大川駅が開通。昭和10年(1935)5月には、ついに佐賀までを結ぶ総運行距離21.4kmの全線が開通しました。電車の開通を待ち望んだ柳川の人々のかねてからの願いがようやくかなったのです。全線開通時には、1日に30往復の旅客列車と、6往復の貨物列車が走り、のちに国鉄佐賀線として人々の生活に欠かせない重要な役目を果たしていました。
- しかし、1980年に制定された国鉄再建法によって、1987年3月28日、ついに全線が廃止されました。廃止される前日には、さようなら国鉄佐賀線としてセレモニーや、最終列車乗車記念証明書が発行されました。佐賀線の終わりを惜しむたくさんの人びとが、ぎゅうぎゅうになるほど列車に乗り込み、最後の運行とともに別れを惜しみました。筑後柳河駅の跡地は、その後、you遊の森公園に整備され、プラットホームと線路の一部は、橋本町にあるむつごろうランドに移設されました。姿や場所は変わっても、今も柳川の人びとのいこいの場として親しまれています。
- 昭和12年の開設以来、生活の面でも観光の面でもたくさんの乗降客を迎え入れ、重要な役割を果たしてきた西鉄柳川駅ですが、2015年、ついに大規模リニューアルします。3月に、平屋建てだった駅舎は橋上化し、2階部分に改札口、駅務室を移設しリニューアルしました。さらに9月の完成を目指して、1階部分は店舗、駅舎側面は全面ガラス張りの開放的な空間に生まれ変わります。新たな駅舎の北側に新設された橋上の自由通路と接続することで、これまで西側のみだった改札口までのアクセスも、東西から可能となります。エレベーターや、エスカレーターも増設され、バリアフリー構造でご年配の利用客にも優しい駅に。駅のリニューアルに合わせ、東西の駅前広場の整備も進められています。
- このリニューアルでは、柳川市や市民の人びとと連携したまちづくりを計画しており、2012年の1月から8回に及ぶデザイン検討会議や、同年6月から2015年の9月にかけて13回に及ぶ市民ワークショプ、2014年8月から4回に及ぶモノづくりワークショップが行われてきました。駅や駅前広場のいたるところにみんなの思いが活かされた、柳川らしいデザインを見ることができます。駅前を照らす照明は、さげもんのかわいらしさや女性らしさを感じるぼんぼりのような照明、広場に配された石は水郷柳川にちなんだ水をイメージした丸い雫のような形に、西口の駅前広場には、応募によって集まった2097人の名前が刻まれた刻印レンガが敷かれた場所も。駅を利用するたび、そんな柳川らしさを見つけてみてはいかがですか。
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7月・文月
暑さも本格的に、思い出作りにぴったりの柳川の夏を満喫あれ。
2015年3月にリニューアルした西鉄柳川駅の西口/夏の川下りには、ばっちょ傘をかぶってどうぞ/大蛇がみごとな大和町中島の伝統的な祭り、中島祇園祭り/干拓堤防沿いの一面がひまわり畑に様変わりします/堤防横の干潟では干潮時にムツかけ体験が楽しめます/むつごろうランドには、かつての国鉄佐賀線のホームと線路の一部が