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  •  柳川では古くより、移動や飲料、農業用水として、人々の生活に寄り添ってきた掘割。
  •  昭和29(1954)年、白秋の少年時代を描いた、長谷健原作の『からたちの花』が映画化され、映画の中の「川遊び」が注目を浴びました。そして、始まったのが川下りです。
  • 昭和29年8月の当時の地方新聞「柳河新報」では、郷土の文化人の団体「筑後文化懇話会」が、白秋を語るとして、「月の出」を待ってドンコ船にのり、御花から三柱神社の欄干橋までを楽しんだとの記事が載っており、北原白秋が帰柳した折りに「川遊び」を楽しんだ様子を写した写真も残っています。
  •  ラジオが全国に普及し、テレビが各家庭に入りはじめた昭和32(1957)年、取材が初夏の柳川にやってくるようになります。柳川の観光が広がるにつれ、川下りの船頭さんの対応が追いつかないという嬉しい悲鳴をあげました。




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  •  ところが、昭和30年代、柳川市でも高度成長期に伴い食生活の変化や生活形態の変化が起こりました。それに伴い水上水道の普及や生活排水が増えることにより、水の汚染が深刻な問題へとなっていきました。家庭排水の流入によってヘドロも溜まり、写真で見る美しい柳川の風景を求めてやってきた観光客は、変わり果てた掘割の様子に落胆したと言います。
  •  昭和39年、ついに住民や市による川の清掃や浚渫、消毒などの活動が行われはじめました。一度は下水へと掘割を埋め立ててしまおうという計画がでましたが、当時、市の担当者であった広松伝さんが主軸となり、ついに昭和53(1978)年3月の議会で浄化計画が認められ、5カ年の事業継続費が採択、河川対策調査特別委員会が設置されることとなりました。

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  •  少しずつ始まった掘割の清掃、今まで詰まっていた掘割が3本、4本と水が流れるようになりました。始めは人の手で、それからジェットホースという機械で。当初の予定では4年かけて27キロメートルの掘割の流れを取り戻すとしていましたが、1年半で目処がつきました。最終的には浚渫の範囲を10キロメートルのばし、3年2ヶ月の月日を経て柳川の掘割の風景は取り戻されたのです。
  •  さわさわと風に揺れる柳、船頭さんののんびりとした歌声、堀に住むメダカやフナを掬って遊ぶ子ども達。当たり前にみえるのどかな風景も、柳川の人々の手によって守られてきたものです。
  •  7月の夏休み、柳川の歴史や昔を探りに、市立図書館や、水の資料館(一新町のアメンボセンター併設)、貴重な資料が揃い手に取ってみることのできる柳川古文書館へ、足を運んでみてはいかがでしょう。知られざる柳川の秘密、見つけてみませんか。



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7月・文月
梅雨の時期も開け、夏本番。
柳川の夏はイベントがいっぱいです。
夜の川下りに地域の行事、
ディープな柳川もお楽しみください。

稲がすくすく成長する7月。/崩道祇園祭の龍制作風景。/夜もわいわい、崩道祇園祭。/干潟美しい有明海。/中島祇園祭の熱い1日。/朝から夕方まで地域を練り歩きます。/全国で柳川唯一の競艇学校。/海の日には、子どもたちも体験できます。


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